「このサイトに投票」のオレンジ色のボタンをクリックして頂きありがとうございました。お陰様でホームページランキング268位となりました。300位以内に入ったので、特典が与えられました。無料でホームページ作成していますので、通常だとページ数は3ページまで、画像は10枚しか使用出来ませんが、特典としてページ数は4ページ、画像20枚が使用可能となりました。
 この特典は一年間なので、来年はどうなるのか判りませんが、せっかくもう1ページ使用可能なので、今回はブログ的なものを追加することにしました。
 当面、投稿はなさそうなので、私(su)の独断と偏見の混ざった内容を書かせて頂きます。
         (2023.12.11)

 約30年前位の写真です。北九州集談会の忘年会での記念撮影。顔を黒塗りしていない右から三番目が当時の私です。まだ30歳代です。仲間達も多くは同年配でしたし20歳代の人も結構いました。今の発見会は高齢化していますが、最近判ったのは発見会のみでなく、いろんなサークルや趣味の会も同様の現象の模様です。ようするに日本全体が高齢化社会を迎えているという事かも知れません。

 このコーナーは私、S.U個人の、森田や発見会に関する日頃の思いや考えを綴ったページです。恐らく誰もまともに読んでくれないだろう(ひょっとしたら、読むのは私自身だけか?)、という想定の元に、自己満足で書いています。

発見会での症状克服過程について

 森田の初心者は図Aのような治り方を期待して森田学習をしているのではないでしょうか。
(画像はタップまたはクリックすれば拡大表示されます)

発見会協力医の北西健二先生は、現代人の特徴を
「すぐに簡単に手に入る魔法の杖を欲しがる傾向」と表現しています。この場合、北西先生は薬物療法の事を「魔法の杖」と表現し、「薬物療法を受けた方がよくわかっているように、魔法の杖はないのです」と結んでいます。
      『はじめての森田療法』北西健二著 講談社現代新書(p77)。

 しかし、森田を学ぼうとしている人も同様に、森田に対して「魔法の杖」を求めている傾向がある、と私は思うのです。

 実際には、図Bのような過程を踏まないと、ほとんどの人は治らない、と私は考えています。

 「揺り戻し(再発)」は嫌だが、あり得ない事ではないので、ある程度覚悟は必要です。
 いずれにしろ、治っていく過程は一直線ではなく「行きつ戻りつ」なのです。
 戻った時にガッカリして「森田は役に立たない」と思ってしまう人もいるのが、残念で仕方がありません。
 「人生はそんなに簡単なものではない」と知るべきなのでしょう。

 かつて、集談会で伴に森田学習をした人の中には「私はもう森田は充分に理解した」(でも治らない)と言い「森田は私には合わない」と発見会を去って行った人もいました。
その人は図Aのようなパターンで治る事を期待していたのだと思えるのです。(つまり森田を充分に理解していなかった)。
 「飲めばすぐに効き、治る薬」(魔法の杖)というような感覚で森田に期待していた。それが叶わなかったので失望したのでしょう。
 つまり図Bを経験しないまま、「森田は充分に理解した」と言って発見会から離れて行ったのです。

 図Aのようなパターンで治ったと言う人も時々います。
 その人は、充分な自己洞察が出来ていない可能性もある、と私は思うのです。
 自分がなぜ治ったのか、よく自覚できていない。
 「環境の変化」によって少しずつ治って行った。つまり「自然治癒」に近い形で治った人が、勘違いして「自分は図Aのパターンで治った」と主張している、というのが私の推測です。
 「環境の変化による自然治癒」とは、ストレスの原因となった職場を退職した、部署が変わった、ストレスを与えていた上司が転勤になった、転職先の新たな職場で自分を発揮できるようになった、等々が例として考えられます。
 あるいは、年齢を重ねて様々な人生経験を積むことにより、本当に自然治癒する人もいるかも知れません。
 この「環境の変化による自然治癒」は図Bで言えば「行動・体験・経験・体得」の一形態とも言えるのかも知れません。つまり「自分は図Aのパターンで治った」と言うのは大いなる勘違いであって、実はやはり図Bのパターンで治ったのだと言えないでしょうか。治った後に「自分は理論学習のお陰で治ったのだ」と理由を後付けしている可能性もなくはない、と思うのです。

 森田正馬は以下のように述べています。

 理屈や工夫では治らない。(神経症になった)理由がわかって、治ったというのは、それは言葉の上の説明であって、事実は、これとは逆に、治ったからその理由がわかったのである。ウナギは美味い、という話だけでは、わからないが、食ってみて初めてその美味いことがわかるのである。(中略) 単に理論がわかったから治るのではない。ある一定の実行が積んで、その体験ができて、初めて治るのである。                                     (『森田正馬全集第五巻』(以下「全集五巻」と呼ぶ)P395)

 理屈でわかるよりも体験ができさえすれば治り、治りさえすれば、理論は容易にわかるようになるから、体験を先にする方が得策である。(全集五巻P738)


 ちなみに、世の中には以下の図Cのような治り方をする人もいます。
 こういう人は発見会とは無縁なのかも知れないですが・・・・。
 有名人の伝記などを読むと、読書を通じてこういう人と時々出会えます。

私と発見会とのかかわり方

 これからは私自身の体験を書きます。

 私は発見会に入会したのが24歳の時で、発見会との縁はもう40年以上になります。
 私自身の発見会との係わり方は、以下の図Dのようなパターンでした。

 この図には「理論学習」も「先輩会員からのアドバイス」もありません。

 アドバイスについては別途書きたいと思います。
 理論学習については勿論、何もしなかった訳ではありません。
 毎月の集談会でも理論学習はありましたし、一泊学習会には毎年必ず参加していました。基準型学習会も受講しました。
 しかし私の場合には、基本的に「森田の書籍を読む」事と「発見誌を読む」事で、自宅内での「ほぼ独学だった」という記憶しか正直ありません。
 つまり森田を学習したけれど、それは「ほぼ自主学習」だったという感覚です。
 ですから「発見会(または集談会)との係わり」のみを図に示せば、図Dのようになってしまうのです。
「読書による自主学習」という事についても、別途あらためて書きたいと思っています。

 基準型学習会などの講師をやって頂いた先輩会員の皆さんには大変申し訳ないのですが、
講師の話を聴きながら、「ああ、それなら本にもっと詳しく書いていたなぁ」と考えて、上の空で余り真剣に聴いていなかった記憶があります。
 今から思えば、講師は価値ある話を沢山されていたかも知れないのに、私自身が不真面目だったのかも知れません。

 学習会で言えば私の場合には、会終了後の懇親会がひたすら楽しかった記憶が鮮明に残っています。同じ悩みを共有する気の置けない仲間達との一体感は、本当に楽しくて幸福な気持ちになりました。その想い出は私の一生の財産のひとつと言って良いと思います。
 それは図Dで言えば「集談会で得た安心感と共感」になります。

 私にとってはこの部分は症状の悩みから解放される上で相当役立ったと思っています。

こればかりは自宅での自主学習では絶対に得られないものです。

 ところで『森田正馬全集第五巻』に以下の逸話が載っています。

 ある時の形外会で、通常の会合をやめて宴会をやった。歌ったり踊ったりの余興である。

 その事について会員の一人が「余興も面白いけれども、先生のお話をうかがう事が少ないのは残念だ」と不満を述べた。それを森田先生に伝えたところ、先生は「患者が話を聞いて治そうとするのは、あまり感心しない。常に実行を重んじなくちゃいけない。先生も一緒に、天真爛漫に遊び歌う事によって、多くの赤面恐怖や、強迫観念が治る」というような事を言った。(全集五巻P308)

 私自身は不満を述べた患者とは全く逆でした。理論学習を早く終わらせて宴会をやりたい、といつもそう思っていました。そういう自分を「発見会にあるまじき不真面目な会員だ」と内省していました。それが上記逸話を知ってからは、「自分は案外間違っていなかったのかも知れない」と思えるようになりました。森田先生が言いたかったのは、余興が「ある種の実行・実践」になり得るという事だと思いますが、それ以外にも、そのくらいの心の柔軟性を持ちなさいという意味もあったのだと思います。

 集談会で言えば、講師の話をただ聴くという形式のいわゆる「理論学習」よりも、皆でああだこうだと話し合う雑談形式の方が、学習という面でもむしろ役立ったという気もします。(その事については別途書きます。)
 他に役立った事としては、毎月郵送されて来る発見誌を読むこと。

 そうして症状を克服する上で必ず通らねばならない事は職場や仕事、生活を通じての「行動・体験・経験、単に知識ではない体得」だったのは言うまでもありません。
 書籍による自主学習にしろ、基準型学習会受講にしろ、理論のみで実際に体験しなければ、宝の持ち腐れになってしまいます。
 例えて言えば

 「自転車の乗り方を理論で学んだが、まだ実際に乗ったことはない」
 「いつか、そのうち乗ってみようとは思っているのですが・・・」

というようなものです。

このように考えると、前に書いた図Cのような人が世の中に存在するのも何ら不思議ではありません。
「自転車に乗れるようになった。」
「でもなぜ乗れるのか、理論的な事など何も知らないよ」
という人です。
 それのどこに問題があると言うのでしょうか?

森田の核心

 森田正馬の以下の言葉に出会ったのは2018年頃だったと記憶しています。
 その時には「ああ、そうか」という程度の感想だったと思います。
 発見会でも、多くの人達がそんな程度の感想しか持たないようです。

 「性格の違う人とは交際ができない」(どうすれば良いか)とかいうような質問は、典型的な神経質の特徴であって、神経質でない人は、ほとんどこのような質問はしない。
 普通の人は、誰でも、嫌いな人は不快であり、性格の異なる人とはソリが合わない。当然の事である。これを抑圧しようとも、どうしようともせずに、ただ我慢して境遇を押し切り、運命を切り開いて行こうとしている。
 これに反して、神経質は自己中心的な功利主義から、自分の苦痛を最も少なくして、最も大なる幸福を得ようとする工夫から、楽々と愉快に人と交際し、何事にも自分の思い通りにしたいと考えるからであります。(全集五巻P571)

 最初はこの言葉の最初の部分「神経質でない人はほとんどこのような質問はしない」という部分のみに着目して「なるほど、そんなものか」という程度の感想でした。

 それから5年ほど経った時の事だったと思うのですが、
 私は再びこの文章を再読した際、
 今度は「そうか!そうだったのか!」と愕然としたのです。
 5年前には気づけなかったことに、その時気づいたのです。

 それは、この森田の言葉の最後の部分です。

 「自分の苦痛を最も少なくして、最も大なる幸福を得ようとしている」
 「何事も自分の思い通りにしたいと考える」

 という部分です。
 私は、これぞ「森田の核心」ではないか、と思ったのです。
 森田正馬は「神経質性格の物の考え方」を骨の髄まで見抜いていたのだなぁ、と私は感銘を受けました。

 神経質(※)は自己中心的な功利主義(※)から、自分の苦痛を最も少なくして、最も大なる幸福を得ようとする・・・・
・・・何事にも自分の思い通りにしたいと考える

 ※神経質・・・・森田正馬は症状に悩む神経質性格を持った人の事を、単に「神経質」と呼んでいました。一般的に使われる神経質という言葉とは意味合いが異なるので注意が必要。森田先生は「普通の人」と対比する意味で「神経質(の人)」という言葉を使っている。

 ※功利主義・・・快楽を求めて苦痛を避ける傾向。苦痛を悪だとみなす。


 神経質性格の人は
「何事も自分の思い通りにしたい」
という傾向が普通の人より強いのです。
 しかも
「嫌な思いをせずに(苦痛なしに)思い通りにしたい」
という考えも同時に強いのです。

 このような横着で自己中心的な考え方が症状を生むのです。

 このような観点で森田関連書籍や発見誌を読むと、森田正馬と同じようなことを、他の人達も言っている事に気づきます。

「取り越し苦労ばかりして、積極的行動に出られない」と悩む人は・・・

 この悩みの根本は、取り越し苦労なしに積極的な行動に出たい、というところにあるのではないか。嫌な思いや心配をしないで、積極的行動に出たいのだがそれができない、というところにあるのではないか。
楽々と努力したいというのと同じである。無理な注文というものだ。

(中略)私たちの学習の第一の標的は、この「悪知」の打破でなければならない。

 名文発掘 「心を強くする生きかた 自己中心からの解放」 長谷川洋三
 『HAKKEN』(生活の発見誌)2023年12月号記事より)

 つまり・・・・

 嫌な思いや心配をしないで、積極的行動に出たい。
 楽々と努力したい。

  何というムシのよさ でしょうか!!

 神経質の人は、コンビニエンドな(便利な、手ごろな)ものにとらわれるんですね。
 違うんです。(中略)逆に大いに悩んで欲しい(中略)
 悩まないで通り抜けようとするから、自縄自縛(じじょうじばく)に入るわけです。
  しっかり悩んで、現実を見つめていく。すぐに不安をなくそうとする態度から、不安はなくならないけれど、試行錯誤して、現実の生活をどうにかしていこうという、態度の転換を図るということなのです。

  森田療法は我々に何を教えてくれるのか ~症状レベルから生きかたレベルへ~  
       潤クリニック院長 樋之口潤一郎(じゅんいちろう) 
                HAKKEN2023年7月号記事より

 そのようにして、症状を克服したとします。
 そうして症状は克服したけれども、今度は・・・・・

 そうすると、全部万能にしたい、思うように進めたいという、気持ちの強さも出てくるんです。この思い通りにしたいという気持ち、これが神経質性格のいわゆる陶冶、成長の過程で、絶対打破していかなければいけないものです。世の中、全部思うようにいくのかといったら、そんなことないんですね、絶対。

 つまり、こういう事です。
 神経質の人は「こうすれば悩まずに、すぐに問題を解決できる!!」 というような「コンビニエントなもの」を求める傾向がある。「悩まないで、楽々と通り抜けたい」
 それは違う!! と樋口先生は仰っている訳です。
 おおいに悩む事で、神経質人間の良さが発揮され、やがて症状も軽減しますよ、と先生は仰っているのです。

 そうして症状が軽減すると、自分は何でも出来るという自信がついて来る。
 そこで、何でも思い通りにしたいという、神経質の別の悪い傾向が前面に出て来る。
 しかし、人生はそんなに簡単なものではない。何でも自分の思い通りに出来るほど人生は甘くはない。
 最終的には、そこを打破しないと、神経質人間の本当の良さを発揮する為の最終段階は通過出来ない。
 それが、この文章の要約だと思います。


 森田正馬は神経質性格の人を以下のようにも言っています。

 いやな事を、いやでなくしておいて、それから手を出そうとするのが、神経質の通弊でありズルイところである。
                   全集五巻P409

 神経質の人は、何事も自分の思い通りにコントロールしたいという気持ちが強い。しかし嫌な事はなるべく回避したい。そこで嫌な事を嫌と思わずに楽に出来るような強い心を作りたいと思っている。それが叶わなくなると動揺してしまい心身が不安定になり、それが症状となって現れる。
 これが神経症の本質ではないのか、と私は思いました。


 森田正馬は以下のようにも言っています。

 どうも神経質の人は、判断が窮屈でいけない。物の見方が一面的・独断的である。
 つまり早く一定の判断をして解決し片付けようとするからでもあろうか。     全集五巻P574

 また我々の仕事なり、能率なり、すべての行為について、神経質は、これを最も自分の都合のよいように、公式にあてはめ、一定の標準を立てようとする。まことに便利であるようであるけれど、世の中の事は決してそんな単純なものではない。          全集五巻P574 

 「疲労した時は、休息すべきか、もっと働いてもよいか」などいう問答も、みな同様の理想主義の型にはまったものである。(中略) 決してあらかじめ公式をもって定めておくことはできない。(中略) 決して一律にいう事はできない。
   全集五巻P575

 時と場合における事情は、常に複雑極まりのないものであるから臨機応変で、決してこれを「どうすればよい」とか鋳型にはめるべきものではないのである。                全集五巻P568


 森田正馬の言っている「神経質人間の考え方の特徴」をかいつまんで言えば、つまりこういう事になります。

○ その場その場で考えるのは面倒なので「こんな時は、こうすれば良い」とあらかじめ一律に決めておき、その公式通りに物事を処理したい。その方が楽だ、と考える。臨機応変が苦手で、型にはまった考え方を好む。
○ 手っ取り早く問題を解決してしまいたい。公式通りに決めて、早く結論を出してしまいたい。

 確かに、そのような考え方は一見すると理にかなっているようにも思えます。
 ビジネスの問題解決法としては、それも正しいのかも知れません。
 しかし、その考え方をそのまま「心の問題」や「生き方の問題」「人生の問題」などに当てはめようとすると、それは間違いを生む事になります。「人間関係の問題」にしてもそうです。
 森田正馬の言う「世の中の事は決してそんな単純なものではない」ということです。
 しかも、神経質の人は考え方が非常に硬直的なのです。ビジネスにしても状況は刻一刻と変化するものですが、神経質の人は「この方法が正しい」と一度方針を決めたら最後、臨機応変に変更することが出来ないという傾向があります。


 そのように考えると、集談会での理論学習も、アドバイスも、以下のような問題をはらんでいると私には思えるのです。

 発見会の『森田理論学習の要点』も、そのような感覚から学習してしまうと、「型にはまった公式」を学ぶ為のテキストになってしまいかねない。神経質の人は「こうすれば、こうなる」という公式的なものを求めており、理論学習はその傾向を助長することにもなりかねない、とも思えるのです。

 集談会でベテラン会員が初心者会員からの質問に答えてアドバイスする場合も同じです。

「人と会話する時には相手の目を見つめた方が良い」とか「いやいや、日本人の慣習として、あまり見つめない方が良いのではないか」とかのアドバイスがあります。

「疲労した時には、あまり無理をせずに休息をした方が良い」とのアドバイスもよく言う事です。

「人から無理な仕事を頼まれた時は、断った方が良い」と言うアドバイスもあります。

 (しかし、森田正馬は「神経質人間が無理だと思う事は、実は主観的な無理であって、客観的には無理でないことが多いから、出来るだけ引き受けた方が良い」と言っています。)

 いずれのアドバイスにも言えるのは、その場やその時の状況や場面により異なるし、その人の置かれた環境・境遇等によっても異なるので、そのように一律に言うことは出来ないのではないか、ということです。
 しかし、アドバイスされる側は「こうすれば良い」とあらかじめ公式を定められるようなアドバイスを求めています。そのようなアドバイスの方が「ウケが良い」し、有難がられるのです。

 私は森田正馬の言葉を知って以降、そのようなアドバイスに違和感を覚えるようになってきました。

 森田正馬が「神経質でない人はほとんどこのような質問をしない」と言ったのと同様に、
「神経質でない人はほとんどそのようなアドバイスはしない」のではないか?
 と私は考えるようになりました。つまり、質問するほうも質問するほうなら、それに答えてアドバイスするほうも同じなのではないのか、と感じたのです。

 では、神経質でない人は、どのようなアドバイスをするのか?

 私が思うに、恐らく
 プッと笑って、
「そんな事、判らないよ。」
「あらかじめ決める事など出来ないよ」
 という感じの答えで終わってしまうのが、普通なのではないのでしょうか?

 つまり、発見会では、森田学習によって神経症を乗り越えたベテラン会員達も、
実は初心者会員同様の、「神経質人間特有の考え方の特徴」を持ったまま、それを変えることなく、ベテラン会員として鎮座しているのではないだろうか?
それが、今現在、私が何となく感じている感覚です。

ここまでの内容は2023年12月11日にアップしました。→12.13一部追記と修正→12.15一部修正→12.17一部修正

症状克服のポイント 


  先にあげた神経質人間の考え方の特徴以外にも、神経質には以下の特徴もあります。

○ 待てない。焦る。せっかちで気が短い。じっと耐える事が苦手。

 
  それに関して『HAKKEN』に書いていることを参考として引用します。

  私は、森田療法を知るまでは、何か不安なこととか問題が起きるとすぐに解決しようと焦っていろいろやってしまいましたが、森田療法を知ってからは、少し待つことができるようになったと思います。
         2023年11月号『わたしの体験談 メンタルヘルス岡本記念財団 
         第41回心の健康ビデオセミナーより ⑩自殺恐怖、不安神経症の克服体験談 

 
  私も全く同感です。私自身が森田で学んだ事はごく大雑把に言えば、たったひとつしかない。それが、この事だと思っています。
  さらに、以下の事も重要です。

 あるがままは理解できたが、「あるがまま」になれないと悩む


 症状の苦しみをひきずりながら進むということが、いまの自分にとって「あるがまま」だということに気づいていない。あるいは、「あるがまま」を理解したと言いながら「苦しまないで前進することだ」と思い込んでいるからではなかろうか。
 症状は一種のクセである。心身に根づいたクセである。新しいクセを養成するまでは、古いクセの抵抗を覚悟しなければならない。症状の苦しみをひきずりながら進むほかないのである。
     2023年12月号 名文発掘 「心を強くする生きかた 自己中心からの解放」 
              長谷川洋三

 以上二つの事をもし実行できるならば、症状の悩みはやがて軽快する、と私は思います。その際、「あるがまま」とか何とか理屈を考えるのは、もうやめた方が良いと私は思うのです。理屈が先行し始めると森田学習が逆に足を引っ張っる事になります。私はそう思います。

2023.12.15




読書について


   私は読書による自主学習によって森田を学んだと先に書きました。
 そこでよく言われる事が「読書による自主学習だと、ひとりよがりの間違った森田の解釈をしてしまう」という事です。確かにそのような側面もあるとは思います。
 しかし私の経験では、集談会や学習会に参加したところでそれは同じで、結局はひとりよがりの間違った森田の解釈をしてしまう人もいるようです。

 では、読書の利点は何かと言えば、それは「何度でも読み返すことが出来る」という事に尽きると思います。
 数年前に読んで全く理解できなかった内容が、数年後に読んでみるとスルスルと頭に入ってくるというのは、よくあることです。
 数年前に読んだ時には「この部分は重要じゃない」と思って軽く読み飛ばしていた文章が、数年後に読み返してみると「これだっ!!」と感銘を受けることがあります。
 逆に、数年前に読んだ時には非常に感銘を受け、その部分にアンダーラインを引いていたのだが、数年後に読み返してみると「なぜ、以前はこの部分に感動したのか判らない。今はこの部分はさして重要とは思わないのに」ということもあります。
 それだけ自分自身が変化したのだと言えると思います。
   読み返すことによって「ひとりよがりの間違った解釈」が後日修正されることもあり得ます。

 ところが、学習会や講演会だと、テープに録音でもしない限り聞き返す事はできません。また仮に録音したとしても、それを聞き返す事などあまりしないのではないでしょうか。
   ですから、その時には感銘を受けて聴いていたとしても、一ヶ月もすれば内容などすっかり忘れてしまいます。
   もし「ひとりよがりの間違った聴き方」をしていたとしても、読書のように後日修正されることもありません。

  私自身が多くの講演会や基準型学習会などにも参加したにも係わらず、「森田は読書による自主学習だった」という記憶なのは、ひょっとしたら、そのせいかも知れません。
 「あの学習会の後の懇親会の席で、○○さんと話したのは楽しかったなぁ」と一生の想い出となる事はあっても、「学習会で○○講師が話していた事は一生忘れない」と話の内容を想い出す事など、残念ながら滅多にあるものではありません。

  その弱点を解消してくれるものが「発見誌」などのような講演内容を原稿にしたものだと思います。発見誌が自主学習資料として優れていると私が思うのは、そのへんにも理由があるのかも知れません。後から何度でも読み返せるという読書の利点も併せ持った発見誌は「ひとりよがりの間違った解釈」を修正してくれる自主学習資料として、私にとって非常に役立ったという気がします。




集談会の役割

 
 ならば、読書により自宅で自主学習さえすれば集談会や講演会等に出席する必要もないかと言えば、全くそんな事はないと私は断言できます。
 まず、読書だけで現実の血の通った人間同士の繋がりがない人は、間違いなく独りよがりで偏った人間になります。それは「森田の間違った解釈」以前の問題だと思います。「この解釈こそが正しい」と信じ込んでいる人ほど人間的に偏った人はいないのではないでしょうか。(その意味では私も気を付けねばなりませんが・・・)。
  それに気づかせてくれるのが、集談会の役割のひとつだと私は思っています。
  集談会では特に難しい話などしなくても良いのです。雑談でもいい。雑談のなかから「気づき」が生まれることがあります。いろんな話をしているうちに「そうか。そうだったのか。自分の考えは案外間違っていたのかも知れないなぁ」と閃きのようにふと「気づき」が生まれることがあるのです。ベテラン会員が逆に初心者会員から教えられることさえあります。それこそがまさに「相互学習」なのだと思うのです。
  逆に、講師の話を聴くだけの一方通行な理論学習の場合には(医師等の外部講師の講話は別としても)あまり役に立たない場合が多い、というのが最近の私の思いです。



2023.12.16 →12.17一部修正

薬について



  私自身の事を書きます。私は精神安定剤を数十年の長きにわたって服用し続けて来ました。しかしある時、古い発見誌を破棄しようと整理しつつ記事内容に目がとまりました。(私はまるごと破棄はせずに、気になった記事だけは保管しています。その為には整理する過程で内容をサラッと読み返す必要もありました)。
   それは森田正馬の言葉でした。
 その森田の言葉を読んだ時、私は愕然としました。「薬で誤魔化して来たお前に森田の何が語れる。その資格はないだろう」と自問自答したのです。
 それがキッカケとなって、私は徐々に減薬して行きました。薬を飲まないで済む日には、飲まないように心がけました。(今現在は安定剤を飲むことは、ほぼありません。)
 それにしても、その森田の言葉は以前にも読んでいたはずなのに、全く心に留まりませんでした。それがその時には愕然としてしまう程に衝撃的な言葉だったのです。
 後日、その言葉をもう一度読んでみようと発見誌を探したのですが、どんな言葉だったのか全く思い出せず、不明なのです。恐らくその時のタイミングでは心に響く言葉だったのに、後になるともう何も感銘を受けない言葉になっていたのだと思えます。
 自分にとってその言葉の内容がもはや「当たり前」になってしまっているのだと思うのです。その言葉はもう何も特別なものではなくなったのです。

 今振り返ると、私の苦しみは薬を飲むことで楽になり、中途半端な苦しみになっていたのだと思います。中途半端な苦しみだと森田の理解も浅くなる、とはよく言われる事です。
 私が理論学習に不真面目だったのも、宴会ばかり望んでいたのも、そのせいかも知れません。
 しかし、本当に苦しかった当時の自分を思うと、それも致し方なかったのかも知れません。薬で緊張感を和らげなかったなら、私は耐えられず、潰れていたかも知れません。少なくとも仕事は辞めていたと思います。退職せず41年間も同じ職場で全う出来たのも、薬の助けがあったことは否定できません。

 「薬に頼らず、しかし行動はしない」よりは、「薬に頼ってでも行動した」方が良い。
というのが私の言い訳になります。
   行動していろんな体験を積んだことが症状克服の最も重要な要素だったと確信しています。その為の手助けとして薬が役立ったのだと思っています。

症状克服のポイント その②

  お笑い芸人で小説を書き、芥川賞受賞に輝いた又吉さんが言っています。

  悩むことは大切です。正解、不正解だけではなく、どうしようもない状況というのが存在することを知って欲しい。世界は白と黒の二色ではなくグラデーションです。
                       『夜を乗り越える』又吉直樹 小学館よしもと新書

      症状が出なかった(白)
      症状が出た(黒)
  という白か黒かの単純思考から、灰色やグラデーションを認める「大人の思考法」に変わる事は、症状を乗り越える上で大切なポイントだと思います。
   「症状が出たなぁ、でもこれくらいの症状だったら何とか行動も出来るし、日常生活もおくれそうだ。」とか「いや、ここまで症状が強く出るとさすがにヤバい。薬を飲もう」とか、いろんな体験を積むのです。次第に「このくらいの症状だったら何とかやり過ごせる」という感覚が増えて来ます。そうするとそのうち症状が出ようが出まいが、もうそんな事はどうでも良くなって来るのです。
   「今どんな気分か」よりも「今何をしているか」の方が重要になって来るのです。
     但し、最終的に言える事としては「症状に囚われている間は、治らない」という事です。症状を何とかやり過ごせる事を体得したならば、仕事や家事あるいは散歩でも趣味でも良いので、やるべき事、やりたい事に取り組むのです。気づくと「あれっ、いつの間にか症状が消えている」という瞬間が来ます。(ここで難しいのは、症状を消す為にやるべき事に取り組むという姿勢では、症状は消えないという事です。そこのところは理屈でなく実際に体得してみないと判らないのです。)その延長線上に「症状が出ようが出まいがどうでもいい」という境地がやがて開けて来ます。
    焦っては駄目です。後退する時もあります。「せっかく森田のお陰で良くなっていたのに、また悪化した」などと焦らずに、地道に体験を重ねることです。
     長谷川洋三さんが言っているように、症状は一種のクセなのです。クセはすぐに治るものではありません。
   「苦痛を感じずにすぐに効果のある『魔法の杖』」を求めるのは、もうやめましょう。

    症状が身体感覚を伴うクセだとすれば、考え方のクセは頭脳のクセです。どちらのクセもすぐに改善するのは無理です。「ああ、また悪いクセが出たなぁ」と自覚するだけで良いのです。森田正馬は「やりくりや工夫はいらない。ただ自覚さえすれば、それで良い」と言っています。悪いクセを治そうと努力したり、やりくり工夫する事が、すなわち精神交互作用となって逆にクセを悪化させる原因となります。クセを自覚するだけ。ただそれだけで良いのです。あとは「あるがまま」でしょうか。世の中、なるようにしかならない。そういう姿勢は大切です。

   独りで悩むのは苦しいものです。集談会で「悩んでいるのは自分だけではないんだ」という共感や安心感を得るのは、症状改善のうえで相当役に立つと私は思っています。
   もちろん集談会は生身の人間の集まりですから、相性もあります。
   以前の経験ですが、Aさんという方が北九州集談会に出席しました。Aさんにとって初めての集談会出席でした。Aさんはいつも無口で大人しいタイプに見えました。三回ほど北九州集談会に出席したでしょうか。その後パッタリ来なくなりました。
   ある時、私は支部委員として福岡市にある別の集談会に顔を出しました。するとそこにAさんがいたのです。Aさんはまるで別人のようでした。Aさんは随分とお喋りなのです。北九州集談会では見せたことのない明るい表情をしていました。私は思いました。「きっとAさんは北九州集談会では相性が合わなかったのだろうな」と。Aさんは北九州集談会の雰囲気にはなじめず、Aさんの素顔をさらけ出すこともなかった。ところが福岡市のこの集談会では活き活きとした素顔を出し、本音で話しをしているようだ。そのように感じました。(後で判った事ですが、その福岡市の集談会にはAさんと同世代の幹事がいました。しかも二人とも大の酒好きだったのです。)Aさんは大人しいどころか、むしろふてぶてしくて騒がしいくらいの人だったのです。
 集談会にはそれぞれに気風があります。幸いなことに福岡県には数か所の集談会があります。ですから、自分と合う集談会ならどこでも良いのです。
 あなたも是非、集談会に出席してみて下さい。きっと何かを得られるはずです。

2023.12.20 →12.24加筆修正

補 足

ブログ中の「森田の核心」の項目で森田正馬の以下の言葉を引用しました。

・・・神経質は自己中心的な功利主義から、自分の苦痛を最も少なくして、最も大なる幸福を得ようとする工夫から、楽々と愉快に人と交際し、何事にも自分の思い通りにしたいと考える・・・(森田正馬全集五巻P571)

  神経質性格の人は「何事も自分の思い通りにしたい」という意識が強い
  しかも「嫌な思いをせずに(苦痛なしに)楽々と思い通りにしたい」
  という考えが普通の人より強い。
  と私は述べました。

 ここでは森田正馬は対人恐怖症の人を例にとって話をしています。発見誌などもそうですが、対人恐怖症を例にとって話をする事が多いのは、発見会会員は対人恐怖症が最も多いので傾向としてそうなります。どんな症状でも根っこは同じなのですが、他の症状の人にはピンとこない面もあるのかも知れません。そこで、以下に他の症状を例にとって書きます。

  病気恐怖症の人・・・・病気が怖い。病気になりたくない。それは普通の人でも同じです。しかし普通の人は「いくら病気になりたくないと思っていても、そうなる時もある。それはもう仕方がない。世の中何でも思い通りになる訳でもない。そんな事をあまり心配しても仕方がない。」と思っている。しかし神経質タイプの人は、何でも自分の思うがままにしたいという意識がとりわけ強く、「思い通りにならないであろう事」に対し、強い不安感を抱き続けている。病気恐怖症の人にとって、最も自分の思うがままにしたい事柄が「自分の健康」である。意識がその事に集中している。それはちょうど対人恐怖症の人が最も自分の思うがままにしたい事柄が「対人関係」である事と同じである。
  病気が怖くならないようになりたい、という人もいる。病気が怖くない人などいないはずなのに、自分の心を自分の意のままにコントロールしようとしている。自分の心を自分の思うがままにしたいと考えている。

  手洗い、ガスの元栓等、気になる事を延々とやり続ける確認恐怖症の人・・・・確認して気持ちをスッキリさせたい。そうしないと気が済まない。気になることを気にならないようにしたい。自分の気分を自分の思うがままにコントロールしたい。スッキリした気分を味わうまでは確認をやめられない。何事にも自分がスッキリした気分になりたいという気持ちが強い。自分の思い通りにならないと気持ちが落ち着かない。対人恐怖症の人が「人間関係」に対して自分の思い通りにしたいという意識が特に強いのと同じように、確認恐怖症の人は、自分の思い通りに「モヤモヤした気持ちをスッキリさせる」という事に意識が集中している。
  ここで少し予断になりますが、福岡県中間市在住の作家であり精神科医でもある帚木蓬生さんは、以下のように述べています。

  (確認行為を)途中でやめようとすると、苦悶が生じ、胸苦しくなります。その苦悶をすっきりさせようとして、また確認が増えます。(中略)このときの「すっきり」した気持ちは、麻薬と同様の効果となっています。麻薬は、使用すればするほど量が増えます。(中略)確認による「すっきり」感も全く同じです。すっきり感を得ようとして、確認行為はいよいよ長時間を要するようになります。確認してほっとした状態が、おつりを生んで、またひどくなるのです。           帚木蓬生 『生きる力 森田正馬の15の提言』朝日新聞出版


 自分の思い通りにしたいという点では、不眠症や体調不良に対するこだわりなどもそうです。普通の人は「眠れない日もあるさ」「今日はちょっと体調が悪いな」程度の感覚です。ところが神経症の人は、睡眠にしろ体調にしろ、自分の思い通りにしたいという感覚が強いのです。自分の思うがままに体調をコントロール出来ないと気が済まない。
 漠然とした不安感や鬱々とした気分に対する姿勢も同様です。自分の思い通りに自分の気分をコントロールしたいという意識が強い。不安感や鬱々とした気分はあってはならないものだという感覚があり、それを自分の思い通りに排除したいと思っている。それが思い通りにならないと、パニックになる。

 (私がいまひとつ理解が難しいと思うのは、心臓神経症・パニック障害の人です。このタイプの人達は、性格的にサッパリして明るい性格の人が多いように思えるのです。他のタイプの人のような物事にネバっこく執着したり、自我の強いタイプの人は少ないようにも思えるのですが・・・。)


  さて、症状はともかくとしても、何事も自分の思い通りにしたいという意識が濃厚だと、人生全般で生きづらさを抱えることになってしまいます。例えば、職場などでは、いつでも自分の思い通りになる訳ではないので、挫折すると鬱病になったりしやすいのです。
  男性に多いと思いますが、自分の人生を全て思い通りに計画的にコントロールしようという傾向が出て来たりすると、生涯独身になる可能性も高くなってしまいます。なぜなら、元々は赤の他人だった結婚相手は、必ずしも自分の思い通りに付き従ってくれるとは限らないからです。女性の場合には思い通りの生活にならないとパニックになって大騒ぎしてしまい、家族を巻き込んでしまったり、育児ノイローゼになったりするかも知れません。

  発見会本部HPに以下の森田正馬の言葉が紹介されています(発見誌2024年3月号にも掲載)。
 

  普通の人は、自分の人生の目的のために、なるたけ細かく苦労することを当然のことと承知の上でやります。なのに神経質は自己中心的に、知恵の周りが良すぎるために、自分勝手な都合のよいことを考え出すのであります。すなわち自分の人生を完全にしようという大望を持ちながら、しかもそれを安楽に取り越し苦労なしにうまくやろうという、ずるい考えを起こします。たとえば苦労せずに金持ちになろうとするのと同様です。強迫観念にかかっているものは、自己一点張りのために、決してこのことに気がつかないのです。

 
  私自身が「何事も自分の思い通りにしようとする」傾向がある事に気づいたのは、60歳を過ぎてからだったと思います。過去を振り返るとこれまで随分、身勝手なことばかりやって来たものだなぁ、きっといろんな人に不愉快な思いをさせて来たのだろうなぁ、と恥ずかしくなりました。

  私は、発見会の『森田理論学習の要点』のようなテキストで学習しても、何でも思い通りにしたいという自分の考え方の特徴を自覚する事は出来ませんでした。森田正馬の言葉をじかに読んでから、ようやくそれに気づいたのでした。
 ちょうどその頃、私は「普通の人の生き方」から学ぶ機会が多くありました。つまり普通の人達はどんな感覚で生きているのか、それを知る機会に多く恵まれたのでした。普通の人達の生き方から学んだ事は、理論学習以上に大きかったように思うのです。

 普通の人は(中略)どうしようともせずに、ただ我慢して境遇を押し切り、運命を切り開いて行こうとしている。(森田正馬全集五巻P571)

 まさしくそれです。
 「症状を治す為」その手段として森田を学ぶうちは、決して森田の本質を理解する事など出来ないと私は経験上そう思います。「楽に生きる為」それを知る方法として森田を学ぶうちは、決して森田の本質を理解する事など出来ない、と私は経験上そう思います。
 森田は「自覚を持つ為」に学ぶのです。森田正馬は、自分はいかなる人間か、自覚を持つことが大切だと言っています。そして「やりくり工夫はいらない。ただ自覚しさえすればそれで良い」とも言っています。「やりくり工夫」とは、こうすれば症状の悩みが少なくなるとか、こうすれば楽になれるとか、です。あるいは自分はこんな人間だと自覚したのだから「ならばこの悪い性格を変えよう」とするのもやはり「やりくり工夫」です。森田正馬は、やりくり工夫はいらない、と言っているのです。「ただ自覚しさえすれば、それで良い」のです。「自分はこんな人間である」と自覚すれば、欠点は自然と是正されていくのです。確かにそれには時間はかかります。しかし、自分の欠点を変えようと何十年もモガキ続け、やりくりし続け、工夫し続けても、治らなかったことを思えば、自覚さえ持てばずっと短い期間で徐々にではあっても変わっていくのだと思います。大切な事は自覚なのです。

 発見会の山中顧問は以下のように述べています。

 再発状態になると、行動しても解決にはつながりません。なぜなら、行動すれば解決するという先入観が根づいているからです。それゆえに、よけい悲観に暮れる結果を招きます。
 そうなる根本理由は結局、ご本人の自覚、気づきが足りなかったからです。神経質のとらわれの根本的な解決は「ひとえに自覚にかかっている」と、森田博士がおっしゃっているとおりなんです。   
『Hakken』(発見誌)2024年2月号 「森田で辿りつく静かで温かな世界」

 

  以上、随分と難解な事を書いてしまいました。
  症状を治す為に森田を学習しているのに、「症状を治す為の手段として森田を学ぶうちは決して森田の本質を理解する事など出来ない」とは何を言っているのだ、と反論したくなるかも知れません。しかし「症状を治そうとすれば治らない」というのは森田の基本中の基本なのです。だのに「症状を治そうとすれば治らない」という森田理論を学習する事によって、症状が治る事を期待するとは、何という矛盾なのでしょうか。
  そこに森田を「頭で理解する事の難点」があります。理論を頭で理解しただけでは症状は治らないのは、そのためです。
「自覚を持つ為」に森田を学習するのであれば、そのような矛盾はないのです。自覚を持つという事は、言いかえれば「自分を客観的に観る」という事にも繋がります。その時には、いつの間にか症状は治っているのです。

2024年2月6日追記→2月7日追記→3月1日追記

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